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ぴいの手しごと・家しごと

ぴいのお家での徒然なる日々を綴ります。

おばあちゃんの愛した植物たち

今週のお題「植物大好き」

 

毎年この季節になると、祖母が大切にしていたバラが

我が家の庭でひっそりと咲いています。

 

両親が働いていたので、幼い私たち兄妹は祖母に育てられました。

 幼い日の祖母の思い出と言えば、

・たいへんしつけが厳しかったこと。(よく叱られた、恐かった!)

・魚の煮つけがたいへん上手だったこと。

(この味を母に受け継いでもらいたかった!母の魚料理は・・・)

・子供のころ、祖母と近くの漁港に行って、

 魚を船からベルトコンベアに乗せて陸にあげる作業中に、こぼれた魚をもらったり、

 網にかかった漁師さんのお目当てじゃない魚をもらったりしていたこと。

 いい魚がないと帰りに魚屋さんによって魚を買ってきたこと。

・絵本をくりかえし読んでくれたこと。

・盆栽が好きで、よくハサミを持って庭に立っていた。(猫の額程の小さな庭ですが)

いわさきちひろさんの絵のような優しい人物の絵をよく描いてくれたこと。

などなど

 

大人になってから、

「もっともっとおばあちゃんと話がしたかった!」

「もっともっといろいろなことを聞きたかった!」

「もっともっとおばあちゃんの歩んできた人生について知りたかった!」

とずっと思っています。

 

祖母は1900年、明治33年生れ

13歳の時、母を亡くし

5人姉妹の長女の祖母は、幼い四人の妹たちの面倒を見ることになったそうです。

そしてまだ就学してなかった一番下の妹をおぶって女学校に通っていたそうです。

 

その後小学校の先生となり、その小学校には片道2時間歩いてに通っていたそうです。

(今では考えられませんが...当時は乗り物がなかったそうです。)
(その学校の100周年記念誌には、若き日の祖母の姿がちゃんと映っていました。)
 
いつ結婚したのかは聞いたことはありません。
分かっているのは38歳のとき母を生んだこと。
「生まれた母は未熟児でよく育ってくれたと...」とよく話をしてくれました。
 
祖父の話は聞いたことがありません。
しかし、祖父の遺品のめがねと時計を小さな丸い缶に入れて、とても大切にしていました。
一人娘の母が幼いころに祖父は亡くなったので、母も祖父のことは全く記憶にないそうです。
ただ、祖父は何らかの感染症で亡くなったようです。
(今なら抗生物質があるので治療することが出来るのに..残念です.)
祖父のことは、母より年上の母のいとこたちの方が記憶に残っていて
「船に乗っていて、よく外国土産をもらった。」
「自分の船(釣り船?)を欲しがっていた。」
と話していました。
「祖母は体が弱かったと言っていたのにのに・・・船乗り????????」
幼かった私は、祖父がどんな仕事をしていたのか聞くことができませんでした。
今では祖父を知る人がいなくなっていて、
「結局祖父はどのような人物だったのか?」
今となっては全くわかりません。
そんな祖父の写真が一枚残っているのですが、若き日の父に面影が似ているのです。
父親を知らぬ母は無意識のうちに、父親に似た人を選んだのでしょうか?
 
祖母は私が幼稚園に通い始めた頃から入退院を繰り返すようになりました。
その頃の思い出です。
・幼稚園の入園式の日、仕事の都合のつかない父母の代わりに、妹をおぶって祖母がついてきてくれました。ほかの子は母親と一緒に来ていたのですごく嫌でした。
・幼稚園に行くのが嫌でずる休みした日、その日は母にお願いして「発熱のためお休みする」と幼稚園に連絡してもらい、一人ベットで寝ていたら祖母に見つかって、幼稚園に無理やり連れて行かれました。結局、先生にも友達にもずる休みがばれてさんざんな1日となりました。
・私が胃腸風邪を引いて幼稚園を休まなければならなかったその日、父母は仕事の都合がつかず、仕方なく祖母の入院していた病院に一人で歩いて行くことになりました。
祖母の病室で休んていたら、祖母がリンゴをすりおろしてくれました。
「すごく美味しかった。」
と言ったら、
「吐いておいてよう言うわ!」と返されました。
そう、私はすりおろしリンゴを全部平らげてそして嘔吐したのです。
(当時の病院の看護婦さんごめんなさい。大迷惑をかけました。多分!)
病気で入院中の患者のもとに、病気の子供が身を寄せているわけで・・・
今の時代なら患者の容態を悪化させる可能性があるのでこのようなことは多分出来ないでしょう。
当時はおおらかな時代だったこと、祖母が個室だったこと、
病院が近所で元軍医の外科医の院長先生に、たびたびお世話になっていたことで
大目に見てもらっていたのだと思います。
(そう!お転婆でよくけがの治療をしてもらっていました。)
 
祖母は厳しく、そして優しい人でした。 
 
小学校に入ると、友達と遊ぶことが多くなり、祖母との距離もだんだん離れていきました。
その頃の私は祖母が家にいるので友達を家に呼ぶのが嫌でした。友達の祖父母に比べ老いた祖母の姿を見せるのが嫌だったのです。
 
中学1年の時、祖母は階段から転落して歩けなくなり寝たきりの生活になりました。
そんな祖母のために母は、花が大好きな祖母のために庭が眺められるようにベットを置きました。
同じ屋根の下に住みながら、この頃からあまり祖母の部屋に行かなくなりました。
独り、ベットの上で祖母は毎日何を思っていたのでしょう。
 
そんな祖母を母は仕事をしながら2年間自宅で面倒を見ていました。
その後、特別養護老人ホームに入所することになり、そこで天寿を全うする事となりました。
老人ホームに入所した頃から少しずづ認知症も進んできました。
現在と空想の世界を行ったり来たり・・・
話の通じる時もあれば、全然ダメなときもありました。
父母はお正月やお盆など長い休みが取れるときは出来るだけ祖母を家に連れて帰るようにしていました。
祖母が 家に帰ってきていた時のことです。
その日の祖母はこちらの世界の住人に戻ってきていたようで、唐突に
「いくつになった?」
と聞いてきて
「18」
と答えると
「そんな歳になったら、もう結婚せなあかんな〜。相手は、体の丈夫な人が良い。
おじいさんは、体が丈夫じゃなかったからあっという間に逝ってしもうた。
 それからな、人生なにがあるかわからへんから女でも手に職をつけやなあかん!女も仕事をせなあかん!」
と力説してくれました。
 早くに夫を亡くし、一人で母を苦労しながら育ててきた祖母ならではの言葉なのでしょう。
今思えば、祖母とゆっくり話をしたのはそれが最後だったような気がします。
 
それから私は、大学に進学し自宅を離れたため、祖母と会う機会はさらに減りました。
 
大学卒業後、祖母の言いつけ通り手に職をつけ、無事就職した1990年夏、
祖母は一人静かに亡くなりました。90歳でした。
その日は私の誕生日で、休みをとって祖母に会いに行く予定でした。
その年から私の誕生日は、祖母の命日になりました。
「いつまでも忘れないで!」
と祖母が言っているような気がしています。
 
それから26年
今春もおばあちゃんが大切にしていたバラの花が咲いています。
このバラにまつわるエピソードがあったのか?なかったのか?
いつか、おばあちゃんに聞いてみたいと思います。
 
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バラのほかにサボテン達も今も健在です。
祖母の大切にしていたこの植物たちを
母もとても大切にしています。
私もこの植物たちを受け継いでいくことでしょう。
 
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